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素晴らしかった学習発表会。

今日は、小学校の学習発表会でした。

まおまおは音楽劇、TORAは本格的な劇に出演しました。

沖縄行きでお休みしていたので、リコーダーの出来の悪さに、不安だったまおまおでした、一昨日昨日とずーーーーーーっと吹いていて、なんとか本番ではいい感じに吹けましたよ♪

意外と努力家なのかも?

 

そして、TORAたち6年生の劇は、原爆をテーマに据えた本格派。

先日、小学校に来られて、生徒みんなにお話を聞かせてくださった、友田典弘(ともだつねひろ)さんの半生が題材でした。

以下、中國新聞ヒロシマメディアセンターの記事を引用します。(http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?bombing=%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%8B%E3%83%92%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%80%80%E7%88%86%E5%BF%83%E5%9C%B0%EF%BC%95%EF%BC%90%EF%BC%90%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%80%80%EF%BC%9C%EF%BC%98%EF%BC%9E

袋町国民学校で被爆 渡韓 異境で流転15年

爆心地から約460メートル。

友田典弘(つねひろ)さん(78)は、広島市袋町国民学校(現中区の袋町小)で被爆したが、鉄筋西校舎の地下室にいて奇跡的に助かった。4年生だった。

 

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <8> Ⅲ地図

爆心地からすぐ近くの学校で、被曝。

同時に流転の荒波にのみ込まれる。日本の植民地から解放された韓国へ渡り、朝鮮戦争の惨禍も体験した。「広島へ戻ってこられたのは15年後やった」。

現在は大阪府門真市三ツ島に住む。

遅刻し駆け降りた

1945年8月6日朝、友田さんは弟幸生さん=当時(8)=と登校した。

建物疎開で取り壊した木造校舎の後片付けが始まろうとしていた。児童約70人が校庭に出ていた(「ふくろまち創立百二十周年記念誌」)。

「遅刻したのでげた箱がある地下室へ駆け降り、靴を脱ごうとしたらピカッと光った」。地下からの外階段へ先に出ていた弟は死んでいた。校庭で倒れていた児童たちは歯だけが白かったという。やはり地下室にいた同級生の手を引き、比治山を目指して逃げた。

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <8> Ⅱ被爆後は救護病院となった袋町国民学校西校舎-300x196

自宅は大手町(現中区)。父は病死し、洋服仕立てを引き継いだ母タツヨさん=同(30)=との3人家族だった。

母を捜して死臭の街を歩くなか、自宅2階に下宿していた男性と再会する。バラックを建てたが9月17日に広島を襲った枕崎台風で押し流された。朝鮮半島出身の男性は帰国を決め、友田少年を伴った。

「親のいない僕を一人残すのは『かわいそう』と思ったんとちゃいますか。付いていくしかなかった」。

門司から漁船で日本への引き揚げ者であふれる釜山を経てソウルへ着いた。「アボジ(お父さん)」。男性を言いつけ通りに呼んで各検問をくぐり抜けた。

金烔進(キムヒョンジニ)と名付けられた。しかし、「アボジ」が結婚して子どもが生まれると居づらくなったという。13歳で飛び出した。

今度は異境で独りとなった。駐留米兵相手に靴を磨き、路上でかますにくるまって寝た。

 米ソ両陣営を後ろ盾とする韓国と北朝鮮の間で50年に戦火が起きると、砲弾が目の前で飛び交う。「むごかった」朝鮮戦争は53年にようやく休戦となり、パン製造の店に住み込んだ。20歳のころから帰国を求めてソウル市庁を訪ねるが、門前払いが続いた。自暴自棄にもなった。日韓に国交はなかった。

忘れていた日本語

「故郷ガナツカシクテ」(中国新聞58年11月13日付)。戸籍謄本を求める手紙が当時の広島市長に届いたのを機に扉は動きだし、ソウル市長の協力で60年6月に帰国を果たす。

手紙を幾度も書いたのは梁鳳女(ヤンポンニョ)さんという婦人。「市場で使い走りをしていたころ知り合い、息子同然にかわいがってくれた」。日本語はすっかり忘れていた。

夢にまで見た故郷だったがマスコミで騒がれた分、好奇の視線にもさらされた。「それで(在日)韓国の人が多い大阪に出たんです」。30歳の時に知人の仲立ちで結婚。転職したステンレス加工会社で働き続け、4男1女を育て上げた。

友田さんは、被爆からの辛酸をなめた日々を「死ぬ覚悟で生きた」という。続けて、「若い時に苦労したから今も『元気やなあ』とカラオケ仲間にも言われるんですわ」と、終始明るい口調で半生を語った。

だが、この話になると唇をかみしめた。

仕事と家庭が落ち着くと「恩人」の梁さんを捜して訪韓を重ねた。95年に現地のテレビ番組に出演して長女と再会できた。「『あんたのことを母は死ぬまで心配していた』と言われ…」。その韓国へは「嫁はんを一度は連れて行ってやりたかった」という。

伴侶の佳世子さんは昨年12月に75歳で急逝した。再び独り暮らしとなった身を、「さすがに応えますわ」と目頭をぬらして笑った。

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <8> Ⅰ袋町小平和資料館の地下で証言する友田さん-300x216

(2014年7月21日朝刊掲載)

出典・引用( 中國新聞ヒロシマメディアセンター )

 

「生き抜く」ということ。

・・・この友田さんの流転の半生を、まさに「流転」という題で、6年生が演じました。

暗い暗い舞台。

昨年の、まおまおたち3年生の舞台を思い出す。

今の年齢の友田さんの語りから始まって、被爆した小学生時代、そして渡韓した青年時代へと移り変わる。

原爆投下直後の場面は、舞台装置がシンプルな分、6年生みんなの迫真の演技に、心打たれました。

熱い熱いと訴えるこどもとお母さん。

亡くなってしまった赤ちゃんを抱きしめるお母さん。

 

涙が止まらんかった。

いつも見ている、ちっちゃいころから知っている6年生のみんなが、全然ちがう人に見えた。

きっとみんな、友田さんに会って、話を聞いているから、戦争は怖い、恐ろしいって、心の底から叫んでいたんだろうな。

いつもはガヤガヤしている低学年の子たちも、息を飲んで見入っていた。

 

こどもの力はすごい。

 

そして、何より、生きることの素晴らしさ。

最後に、友田さんと、6年生のみんなが会ったときの写真が、映し出されていましたが、みんな、とってもステキな笑顔だった。

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TORAと友田さん。

こんな笑顔のTORA、珍しい!

 

友田さんの人生は、苦難に満ちていたけれど、生き抜いてこられた。

「生きる」ことの強さ、大切さを、こどもたちは友田さんに教えてもらって、そして、こどもたちの演技を通して、教えてもらったような、そんな素晴らしい時間でした。

6年生のみんな、小学校生活の集大成を見せてもらいました。

ありがとう!

 

・・・ちなみにTORAは。

ナレーターと、逃げる人の役。

みんなの熱演に比較すると・・・微妙・・・ではあったけど。

彼なりに、一生懸命演じていました。

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はっきりした答えのない問題を解くことが苦手な彼ですが、彼なりの答えをさがそうと、がんばっていた思います。

これもまた、成長!

残り少ない、小学校生活、目一杯楽しんでほしいものです(^o^)